Exodus

デイリーデボーション 出エジプト記 (毎日更新中)
 『進み出てその仕事をしたいと思う者すべてを、呼び寄せた』(出エジプト36章2節)
 人々は喜びにあふれ、押し寄せるようにして幕屋の製作に必要な材料を持ってきたので、もうこれ以上ささげないように、とモーセがとめなくてはならないほどの材料が集まりました。材料が備えられ、いよいよ実際の製作をするにあたって、モーセは、主に知恵を与えられ、感動して、進み出てその仕事をしたいと思うすべてのものを呼び寄せました。設計する能力を与えられたもの、刺繍や彫刻など手に技術のある者、撚り糸からデザインどおりに幕を織り上げることのできる者たちが、『呼び寄せ』られたのです。主は、私たちの心の願いを汲み取り、主のお役にたちたいと強く願う者たちすべてを『呼び寄せて』下さるお方です。主に与えられた才能を生かし、感動と喜びをもって主のために何かをしたいと願っているならば、必ず不思議な方法でお呼びがかかります。自分は何かしたいのに、機会が与えられないな~と思い悩むときも、主のそばを離れず、主に与えられた知恵と賜物を生かして腕を磨きましょう。主はついに時が満ちて、『この時のために』という大切な時のおとずれを、すでに用意しておられるのです(エステル記4章)。今日のデボーションは詩篇64篇と出エジプト記36章です。祝福をお祈り致しております!(2011.4.2. #1458

 『主は彼らをすぐれた知恵で満たされた』(出エジプト記35章35節)
 人々と主が出会う場所としての幕屋が、いよいよ作製されるにあたって、主はその材料を『すべて、心から進んでささげる者』が用意し、『心に知恵ある者』たちの手によって作り上げるように命じられました。幕屋は、人々の主に対する思いが一つになった作品だったのです。設計、彫刻、刺繍(ししゅう)、機織り(はたおり)その他あらゆる仕事が巧みな手のわざによって行なわれていますが、主はひとりひとりを『すぐれた知恵』で満たして下さいました。どんな仕事も主に与えられた知恵によって、効率、仕上がりともに最上の出来となるのです。私たちも、心から主にささげたいという思いと、主に対する感動をもって、主にお仕えしてゆくならば、主は必ず私たちをもすぐれた主の知恵で満たして下さいます。ベツァルエルは『知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊に満たされ』、『彼の心に人を教える力を授け』られました(同31~34節)。設計から指導に至るまで、すべての仕事が主の知恵によって導かれていたのです。『あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。』(ヤコブの手紙1:5)今日のデボーションは詩篇63篇と出エジプト記35章です。祝福をお祈り致しております!(2011.4.1. #1457

 『主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者』(出エジプト記34章6節)
 私たちが滅びなかったのは主のあわれみによるということばどおり、私たちのすべての罪が主イエスの十字架の贖いによって赦されたのは、まさに神のまことの愛、恵み、あわれみ、赦しの結晶でした。私たちは人と自分を比べて優劣をつけることがありますが、『義人はいない、ひとりもいないすべての人が罪を犯した』というのが神さまの結論でした(ローマ3章)。それでは人類にもはや希望はないのでしょうか?いいえ、『ただ、神の恵みにより、キリスト.イエスによる贖いのゆえに、価(あたい)なしに義と認められるのです』。主の愛が十字架の上に注がれて、私たちは赦され、癒され、義とされたのです。モーセの顔は、主と語り終えるたびに輝きました(同29~35節)。モーセ自身から光が発せられたのではなく、主の栄光を体いっぱいにあびるうちにモーセの顔のはだは光を放つようになったのです。私たちもからだいっぱいに主の愛と恵みを受けるうちに、自然と主の光を映し出すように、輝きはじめるのです。ダビデも感動とともに詩篇に歌いました『しかし主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。』(詩篇86:15)今日のデボーションは詩篇62篇と出エジプト記34章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.31. #1456

 『もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください』(出エジプト記33章15節)
 山上において、主とモーセが語り合っているうちに、早くも鋳物の子牛を作って礼拝をはじめた民に主の怒りが燃え上がりました。モーセのとりなしによって、即座のわざわいを思い直された主でしたが、このまま民といっしょに旅を続けるならば、また怒りを燃やすことがあってはならないと主は代わりに御使いを遣わすと仰せられます。ところがモーセはそれを受け入れません。主がいっしょでないならば、出発することはできないと、モーセは主に同行を強く願います。御使いが遣わされることも素晴らしいことだと思うのですが、主がいつもともにおられることを、何よりも強くモーセは求めていました。そしてついに主も『わたし自身がいっしょに行って、あなたがたを休ませよう』と応じて下さったのです(同14節)。主がともにおられることは私たちに決して動かされることのない平安を与えます。主イエスが『インマヌエル神はわたしたちとともにおられる』という名で呼ばれたとおり、主は今日もわたしたちとともにいて下さるのです。さらに主は、自ら十字架の上にご自身をささげ、私たちがさばかれ、滅びることを望まず、すべての罪の赦しを力強く宣言し、私たちひとりひとりに永遠のいのちを与えて下さいました。今日のデボーションは詩篇61篇と出エジプト記33章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.30. #1455

 『どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください』(出エジプト記32章12節)
 モーセが四十日、四十夜、主の語りかけを記しているうちに、山のふもとで待ちきれなくなった民が、アロンを筆頭に鋳物の子牛を造って、その子牛を礼拝しはじめていました。私たちはどんな折にも、自分勝手な解決方法を作り出すのではなく、神の時、神のタイミングを待ち望まなくてはなりません。乱れる民の様子をご覧になった主は、怒りを燃やし、民にわざわいを下そうとなさいますが、モーセが立ち上がり、『どうかあなたの民へのわざわいを思い直してください』と、とりなすのです。主はそのモーセのとりなしを聞いて、わざわいを思い直されました。ソドムの町を滅ぼされようとした主の前に、必死で交渉にあたったアブラハムの祈りも聞き届けられ、主の『あわれみによって』ロトの家族は奇跡的に救い出されます(創世記19:16)。主イエスもご自身のいのちをささげて、とりなしてくださいました。主のゆるし、あわれみ、恵みは、とりなし手の祈りによって、せきを切るように流れだすようです。公平、公正かつ完全なさばきを唯一下すことのできるお方でありながら、神ご自身もまた、そのさばきをとどめ、恵みとあわれみをそそぐために、地においてとりなす者を捜し求めておられるのです。モーセは、主の赦しをもとめて、自身のいのちを差し出すことすら厭いませんでした。モーセのような預言者ということばによって、イエスさまが啓示されたゆえんがここにあります。今日のデボーションは詩篇60篇と出エジプト記32章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.29. #1454

 『わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのもの』(出エジプト記31章13節)
 一週間のうち六日間は仕事をし、七日目は休んで安息日とする、と主が定められます。私たちが精神的にも体力的にも、回復を得るために、安息は大きな役割を果たしますが、安息日には、神さまと私たちの関係を毎週確認する、という目的がありました。主は安息日を『しるし』として、主が私たちを『聖別』され、神さまのものになったことを私たちが『知るためのもの』と説明されています。『知る』とは、深く理解し、納得し、体得することです。聖別された者とは主イエスの十字架の血潮という尊い代価をもって、主に買い戻された者主のものとせられ、神さまの子どもとして新しく生まれた者主によってすべての必要を満たされ、すべてのよきものを主から受け、主の栄光を現わすために生かされている者とあげてゆくときりがありませんが、主は祭司のみならず、すべてのイスラエルの民を『聖別』して下さったのです。私たちは自分自身のものではなく、主のものとなりました。主もまた七日目に『休み、いこわれ』ました(17節)。私たちも主のもとに荷を降ろし、憩い、自身の真のアイデンティティを『知る』必要があるのです。今日のデボーションは詩篇59篇と出エジプト記31章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.28. #1453

 『アロンとその子らに油をそそぎ』(出エジプト記30章30節)
 祭司の仕事を、私たちの仕事や生活にあてはめることができます。祭司がまず水と血によって洗われ、聖められたように、私たちも主イエスの十字架で流された血潮によって完全に聖められます。次に祭司は、主にお仕えするために、油をそそがれました。『キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています』とヨハネが記したとおり、私たちも注ぎの油として聖霊を受けるのです(ヨハネ2章)。ちょうど祭司が油をそそがれて職務にあたったように、私たちも聖霊に満たされるとき、主に用いて頂けるのでしょう。今日の章には、実際にアロンとその子にそそがれた香油の作り方の詳細が記されていますが、その油はその他の人に注がれることはゆるされず、また祭司に注ぐ以外の用途に用いたり、それに似たような調合をして、その麗しい香りをかごうとする者は厳しく処罰されることが定められていました。聖なるものとして、主が用いられる油としてだけ使うことが許されたのです。私たちも同じく、ただただ、主のためだけにと心を定めるとき、不思議と聖霊の油がそそがれる体験をするでしょう。神さまのためだけではなく、何か他の目的を心に抱きながら、主の奉仕にたずさわっていても聖霊のそそぎは与えられません。今日のデボーションは詩篇58篇と出エジプト記30章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.27. #1452

 『そそぎの油を取って、彼の頭にそそぎ、彼に油そそぎをする。』(出エジプト29章7節)
 主のもとで祭司として奉仕する、アロンとその子どもたちが、聖められ、油そそぎを受ける手順が細かに記されています。まずはじめに会見の天幕の入り口に近づき、水で洗われたのちに、装束を身に着け、それからそそぎの油を頭から注がれます。それから若い雄牛1頭、傷のない雄羊2頭、それぞれの頭の上に祭司が手を置いてほふり、その血をもって聖めが行われています。主の奉仕にたずさわる前に、聖められる必要があったことを覚え、身のひきしまる思いが致します。大祭司は『その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません』(へブル5:3)とある通り、祭司自身も弱さを身にまとった不完全な人間でした。ところが『大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので人々を思いやることができる』(へブル5:2)と主はその弱さを用いられました。主のお仕事にたずさわる前に、主の十字架のもとへ行きましょう。『御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます』という約束どおり、主は私たちをすべての罪から聖めてくださるのです。さらに『わたしの力は、弱さのうちに完全に現われる』(コリント12:9)という約束どおり、罪ゆるされた者たちの上にそそがれる主の力が原動力となって、私たちは主にお仕えすることができるのです。今日のデボーションは詩篇57篇と出エジプト記29章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.26. #1451

 『栄光と美を表わす聖なる装束(しょうぞく)を作れ。』(出エジプト記28章2節)
 幕屋において、主にお仕えする祭司として召されたアロンに、主の栄光を表わす装束が着せられます。主にお仕えする者はみな、主の栄光を受けて輝かされるのでしょう。モーセもまた主と語った後には、いつも顔に覆いをかけました。主の栄光を受けて輝くモーセの顔から、少しずつ輝きが失われていくのを隠すために、覆いがかけられていたのですが、『人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです』と力強い約束が新約の時代に与えられています(コリント3章)。主は、アロンに主の栄光を表わす装束を与えてくださったように、またモーセの顔を主の栄光で輝かせてくださったように、主に仕える私たちをも主の栄光で輝かせて下さいます。また一方で、アロンとその子どもたちは裸をおおう亜麻布のももひきをはいています。肌を見せないように、自身はすっぽりと美しい装束で包みこまれていたのです。イエスさまの十字架の贖いのゆえに、主は私たちの罪咎をすべて聖め、主の栄光で包み込んで下さいます。『私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊(みたま)なる主の働きによるのです。』(コリント3章18節)今日のデボーションは詩篇56篇と出エジプト記28章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.25. #1450

 『上質の純粋なオリーブ油を持って来させ、ともしびを絶えずともしておかなければならない。』(出エジプト記27章20節)
 神ご自身は光を必要とされないお方ですが、主がご自身を現わし、主の栄光に輝く至聖所を仕切る垂れ幕の外には、祭司たちのために、ともしびが絶えずともされていました。旧約聖書、ゼカリヤ書において、幕屋に置かれたものと同じ形をした、7つのともしび皿を備えた燭台に、直接オリーブの木から油が流れ出し、オリーブ油の流れが尽きることなく、油を豊かにたたえたともしびが光を放ち続ける光景が描かれています。その光ゆえに、祭司たちは希望と力に満ちて奉仕を行なったはずです。主は、そこで『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』(ゼカリヤ4:6)と語られます。オリーブ油のそそぎは、神の霊のそそぎをあらわしていました。私たちも尽きることのない、聖霊の注ぎを受け、聖霊に満たされるとき、私たちを神の働きへと従事させる、愛と希望と情熱のともしびがその光を増すのです。油を絶やしてはなりません。油を絶やさないためには、主につながるしかありません。聖霊による主の油そそぎが、私たちを尽きることのない力に満たして下さいます。『とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。』(ルカ11:13)今日のデボーションは詩篇55篇と出エジプト記27章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.24. #1449

 『山で示された定めのとおりに、幕屋を建てなければならない。』(出エジプト記26章30節)
 四十日、四十夜、じっくりと主の声に耳を傾け、幕屋の設計図をモーセが書き取ってゆきます。モーセの記述を読んでゆくと、幕屋の美しさに心を打たれます。重厚な幕に包まれているので、外気の冷たさや、夜の暗やみから逃れることができ、まるでキャンプ場のテントの中にいるように包み込まれた安心感がありますし、燭台によって内側が照らし出されていますから、温かい光に包まれた雰囲気がなんとも言えません。人々が主と出会う場所として、神ご自身がデザインされた、温かい愛に満ちた場所が想像できます。ダビデも詩篇の中で、『主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所にかくまい、岩の上に私を上げてくださる』(詩篇27篇)と歌っています。モーセの時代の幕屋と、ダビデの時代の幕屋には、いくつかの違いも見られますが、悩み、疲れたダビデ王が主のふところに身をやすらげ、『主の麗しさを仰ぎ見、その宮で思いにふける』ひと時を過ごすうちに、ふつふつと湧き上がってくる主のいのちの力が、ダビデを回復させ、立ち上がらせ、明日へと向かう新たな活力に満たしたに違いありません。私たちも主のみそばに荷を下ろして、主と語らい、主を仰ぎ見、喜びと賛美に満たされる時間を持たせて頂きましょう。今日のデボーションは詩篇54篇と出エジプト記26章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.23. #1448

 『彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。』(出エジプト記25章8節)
 シナイ山に登ったモーセに、主は四十日、四十夜にわたって語り続けられますが、その一つの内容が幕屋に関する指示でした。まず、幕屋の材料が指定されますが、その材料すべてが『心から進んでささげる人から受け取らなければならない』ものでした。『心から進んで』ということばが目にとまります。主は私たちの心を見ておられるので、いやいやながら材料が集められるのではなく、主を求める人々が、主のためにささげたいと願うものから、聖所が造り上げられることをよしとされたのです。モーセの頃から時代は移り変わり、使徒の時代を経て、教会が姿を現わしましたが、今の時代の教会もまた同じ原則のもとに立っています。喜びをもって、主にささげたいと思う人々が集まる教会は主にとっても喜びの場所でしょう。『彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む』という主の約束は今も変わらず、喜びをもって集まる人々のただ中に、主も必ずご自身を現わして下さいます。私たちも喜んでいますが、主も喜んでおられます。『全き心と、喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。』(歴代誌28:9)今日のデボーションは詩篇53篇と出エジプト記25章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.22. #1447

 『モーセひとり主のもとに近づけ。』(出エジプト記24章2節)
 主のことばを聞き、書きとめ、イスラエルの民に伝えるため、モーセはひとり主のもとに近づきました。モーセがきちんと主のことばを書き記すために、だれも邪魔することがゆるされなかったのでしょう。その場には他の者が近づくことは一切ゆるされませんでしたが、一たびモーセが書きしるした契約が民の前で読み上げられ、雄牛の血をもって民が主と契約を交わした後には、モーセ、アロン、ナダブ、アビフと長老70人が、ともにそろって主の御前(みまえ)で食事をすることが許されています。私たちにも、ひたすら主を求めて、心の耳を研ぎ澄ませ、ひとりだけで主のみそばに近づかなければならない時と、皆で主に近づき、ともに食事して喜びを味わう時があります。そのどちらもが大切です。そのどちらかといえば、やはりひとりで主に近づくことの方が忘れられがちになるかもしれません。喧騒からのがれて、さまざまな声に惑わされることなく、主の声に耳を傾けるひと時を大切に致しましょう。『イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。』(マルコ1:35)今日のデボーションは詩篇52篇と出エジプト記24章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.21. #1446

 『在留異国人の心をあながた自身がよく知っているから』(出エジプト23章9節)
 コンパッション~深い同情の心~を、持つことに主が重きをおいておられます。主はイスラエルの民に対して、在留異国人を決してしいたげてはならないと強く命じた後に、それは在留異国人の『心』をあなたがた自身がよく知っているからだ、とその理由を述べられます。だれか他の人の心が、自分の経験に重ねあわせると、さらに身近に迫ってきます。ことばの壁、文化の壁、人間関係の壁など、外国で暮らすことの不便さを身をもって体験した者であるからこそ、異国人を特に思いやり、大切にするように、と主はイスラエルの民の苦しみの体験を用いて、彼らの心の中からぬくもりを引き出して下さいます。痛みを負うことはつらいですが、その経験ゆえに生まれてくる愛があるのです。つらい体験も、感謝をもって受け入れましょう。『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。』(マタイ5:3、4)今日のデボーションは詩篇51篇と出エジプト記23章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.20. #1445

 『あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったからである。』(出エジプト記22章21節)
 聖書の中で、特に主は、夫を失ったやもめたち、両親を失ってしまった子どもたち、そして在留異国人の方々を大切にするように勧めています。かつてエジプトの地において、奴隷として暮らしていた日々を思い起こしながら、外国で暮らしている異国人を思いやるようにという勧めです。私たちも自身の弱さを覚えた日々を思い起こすとき、他の人の痛みを身近に感じながら、相手を思いやる気持ちが生まれます。主が求めておられたのは、不利な立場にたたされ、苦しみを覚え、悲しみを抱える他の人々に、私たちがしっかりと寄り添うことだったのです。『神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。』(コリント1:4)『喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。』(ローマ12:15)今日のデボーションは詩篇50篇と出エジプト記22章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.19. #1444

 『その歯の代償として』(出エジプト記21章27節)
 自分に仕えているしもべに、暴力をふるい、歯が一本落ちてしまうようなけがをさせてしまった場合、主人はすぐにその者を自由の身として去らせなければなりませんでした。自分のしもべだからといって、横暴なふるまいを主人がすることは決してゆるされてはいません。すべての不当な行ないに対して、きちんとした償いがなされるように、『目には目。歯には歯』と、他の人に痛みを負わせるならば、その同じ痛みを自分自身も受けなければならないと厳しく定めることによって、人々が他の人に不当なふるまいをすることがないように勧めたのです。イエスさまは、さらにこの律法を深くほりさげて解説し、『あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい』と、たとえ相手に不当な仕打ちを受けても、相手に同じ苦しみを与えることをあえて選び取らないという選択肢を示されました。それは、イエスさまの十字架の赦しと愛の真髄です。人々からののしられ、つばをはきかけられ、鞭打ちと十字架という究極の苦しみを身に受けながら、イエスさまは、『父よ。彼らをお赦し下さい』と祈られました。祈りは、すべての苦しみを覆い尽くす絶大な愛のパワーを生み出すことができるのです。『迫害する者のために祈りなさい。』(マタイ5:44)今日のデボーションは詩篇49篇と出エジプト記21章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.18. #1443

 『あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。』(出エジプト記20章12節)
 なぜ、父と母を敬うことが長寿につながるのか。父と母を敬う心があれば、当然、親と子の関係は温かく親密なものとなり、良い家族の絆を強められれば、心は愛で満たされ、主が私たちに望んでおられる、喜びが満ちあふれるようになりますから、当然体も元気になって長寿につながるのでしょう。一方、主は『子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。』(コロサイ3章)と親もまた、子から敬われるだけでなく、子を敬う存在であるべきことが示されています。このほかにも、妻と夫に対する主の勧めや、友人との関係、また目上の人や人生の先輩との関係など、さまざまな人たちとのかかわりについても、主は聖書のいろいろな箇所でことばを与えて下さっています。どんな人間関係も、健全であれば健全であるほど、きっと私たちに良い健康をもたらしてくれるものなのでしょう。『親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。』(箴言16:24)『陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす』(箴言17:22)主は実に心とからだの健康の結びつきを力説しています。いずれの理由にせよ、父と母を敬うならば、長寿が与えられるとは、神さまの約束ゆえに成就するのです。今日のデボーションは詩篇48篇と出エジプト記20章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.17. #1442

 『モーセは語り、神は声を出して、彼に答えられた』(出エジプト記19章19節)
 モーセは神と語り、神は声を出して答えておられます。次章で民は、煙に満ちたシナイ山から響き渡る、雷といなずまと角笛の音をともなった神の声を聞くやいなや、恐れおののいて、もうこれ以上神さまの声を直接聞かなくてよいように、モーセにだけお話しくださるようにとたちまち悲鳴をあげています。聖書の中には、神の声をさまざまなかたちで聞いた人々がいますが、今回のような怒涛のような声もあれば、ぼろぼろになってすっかり落ち込んでいたエリヤに語られた、『かすかな細い声』もありました(列王記19章)。今回の怒涛のような声は、民が主を恐れ、民が罪を遠ざけるようにする声でしたが、エリヤにかけられた『かすかな細い声』は、いたんだエリヤの心を包み込む、ぬくもりにみちた声だったのでしょう。『光よあれ』と命じられると光ができた、天地創造をも可能にした神の声はどんな声だったのでしょう。いずれにせよ、神の声はわたしたちの心にしっかりと届けられますので、私たちは今日もそのことばにいのちと励ましと力を得ることができます。今日のデボーションは詩篇47篇と出エジプト記19章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.16. #1441

 『アロンは、モーセのしゅうとともに神の前で食事をするために』(出エジプト記18章12節)
 モーセのしゅうとイテロが、モーセの妻チッポラとふたりの息子を伴ってやって来ました。モーセはイテロとの再会を喜び、イテロはイスラエルの民になされた、主の大きな奇蹟を知り、自身も主へのささげものを持ってやってきたので、アロンとイスラエルのすべての長老たちといっしょに『神の前で食事をする』ことになります。神の前でみなとともに食事をする何と嬉しい光景でしょうか。また一方で、民がモーセのもとにやって来ては、『神のみこころを求めて』いました。モーセのもとにいつも行列ができるほどの事件があったことは、必ずしも良いことではありませんが、皆がその都度、神のみこころを求めていたことは素晴らしいことです。神の前でともに食事をし、そして問題が起こるとすぐに神のみこころを求めてやってくるイスラエルの民が、いかに神さまとごく近い関係を保っていたかが伺えます。私たちも主との交わりを深めましょう。神さまの前で食事することを楽しみ、悩みの時にも主のみこころを求めてまいりましょう。長い荒野の旅路にあっても、民が元気で生活できていたのは、主がともにおられることを毎日身近に感じていたからにちがいありません。今日のデボーションは詩篇46篇と出エジプト記18章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.15. #1440

 『モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり』(出エジプト記17章11節)
 荒野を旅行中の、イスラエルの民の大集団に襲いかかるアマレク人たちを迎え撃つべく、ヨシュアをはじめとする代表戦士たちが民を守るために立ち上がります。エジプトを出るときには、ペリシテとの戦いを回避できるように主は導かれましたが、今回は旅で疲れ果て、弱り果てて列の最後尾にいた人々に襲いかかるアマレクと戦うように主は導かれたのです(申命記25:17、18)。興味深いことは、モーセが祈りの手をあげている間はイスラエルの民が優勢になり、手を降ろすと敵が優勢になったということです。またモーセの疲れた手が上げ続けられるように、アロンとフルがささえたということです。そしてこのチームワークによる祈りが、戦っているヨシュアたち戦士の上に、神の力となって現われました。被災地はこれから厳しい寒さを迎えるということですが、今こそ必死になって祈らねばなりません。祈ることしかできないと思うのではなく、その祈りを最大限に生かすことが、今まさに戦っている人々に、試練を乗り越えさせ、勝利させる神の力を導き出すのです。今日のデボーションは詩篇45篇と出エジプト記17章です。(2011.3.14. #1439

 『イスラエルの家は、それをマナと名づけた。白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。』(出エジプト記16章31節)
 イスラエルの民の必要に応じて、主は何と40年間にわたって、毎朝、毎朝、宿営の回りに露を一面に降りさせ、その一面の露が上がると、白い霜のように細かいマナが残り、人々はそれを食べることができました。容易には穀物を得ることのできない、荒野の地において、主は日々、民の必要を満たされたのです。信じられないような奇蹟ですが、それが40年間にわたって起こるというとんでもない奇蹟も、やがては人々にとって当たり前のものとなり、深い感謝の対象ではなくなり、人々は不満をもらすようになってゆきます。主はその時の状況や時代背景に応じて、さまざまな方法を通して、人々の食料を確保して下さっています。ですから荒野の旅を続けるのではなく、定住しつつ、おもに穀物を食するようになった私たちにも、主の奇蹟は起こり続けているのです。米を育てれば米ができるんだ、麦を育てれば麦は育つんだ、と何の感激も感動もなくなってしまうと、植物が光合成をしながら育って、私たちの体の必要をしっかりと満たすことのできる、炭水化物を生成してくれているという奇蹟に気づくことができません。被災地においても、この主の奇蹟の産物がいち早く届けられますように、手を取り合い、祈りあわねばなりません。『蜜を入れたせんべいのような』味はとっても素晴らしかったにちがいありませんが、私たちも本当においしものをたくさん主に頂いているのですから。今日のデボーションは詩篇44篇と出エジプト記16章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.13. #1438

 『わたしは主、あなたをいやす者である』(出エジプト記15章26節)
 壮年男子だけでも約60万人というイスラエルの大集団が荒野を旅することは容易ではありません。疲れを覚える者、体調をくずす者がでてきてしまうことが懸念されますが、主は主の声に聞き従うならば、『エジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である』と宣言されます。エジプトを襲ったような疫病がイスラエルに下されることはなく、病にかかる者を主がいやし、回復させて下さるという約束です。水不足に悩んだイスラエルの民も、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木が繁るエリムのオアシスへと導かれました。復活の主は、私たちに罪のゆるしだけでなく、いやしと回復を与えて下さるお方です。被災者の皆さまに一刻も早く、主のいやしと回復が与えられますようお祈り致しましょう。今日のデボーションは詩篇43篇と出エジプト記15章です。(2011.3.12. #1437

 『主が彼らのために、エジプトと戦っておられる』(出エジプト記14章25節)
 主の導きによって、葦の海に沿う荒野の道を進んでいたイスラエルの民ですが、心を再びかたくなにしたパロの軍勢が押し迫って、イスラエルの民を連れ戻そうとしていました。民は恐れをなして、荒野で死ぬならば、エジプトで奴隷のままである方が良かったと、モーセに不満をあらわにしますが、『主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない』とモーセは宣言します。主もまた、モーセを通して民に『前進するように』と告げられます。やがて雲の柱は真っ暗な雲となってエジプトの軍勢の前に立ちはだかり、モーセが差し伸ばした手の先で、海はなんと右と左に壁となって、海の真中にかわいた道を開いたのです。イスラエルの民を追って、エジプトの軍勢もその道にたどり着きましたが、戦車の車輪が次々と外されて進むことがままなりません。ついにエジプトの戦士たちは『主が彼らのために、エジプトと戦っておられる』と度肝を抜かれ、逃げようとするのですが、手遅れとなってしまいます。私たちも困難な状況に直面すると、すぐに不平、不満の思いにたちまち満たされてしまいますが、そんな時こそ『前進するように』と主の御声を聞くときです。主が道を開かれます。信頼致しましょう。今日のデボーションは詩篇42篇と出エジプト記14章です。祝福をお祈り致しております!~本日の大地震による被災者の皆さまにとって厳しい夜が訪れております。皆で心合わせてお祈りいたしましょう。~(2011.3.11. #1436

 『神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった』(出エジプト記13章17節)
 壮年男子だけでも約60万人というイスラエルの大集団を導くにあたって、主は『近道』であるペリシテ人の国の道には導かれませんでした。そこには多くの戦いが待ち受けており、恐れをなした民が、エジプトへ引き返してはならないという主の配慮からでした。私たちは『近道』を好みます。早く目的地に着くことや、早く目標を達成したいと思いがちですが、案外、「遠回り」することが主の導きであることも多いようです。近道を避けた、荒野への道のりもまた厳しいものでしたが、『主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれ』ました。昼は荒野の暑さをやわらげる雲を与え、夜は荒野の厳しい寒さをやわらげる温かい火の柱を与えて、道中を祝福してくださったのです。たとえ遠回りしているような気がするときにも、主が導いて下さるので安心です。その道のりの中で、主の愛と恵みをいっぱいに受けながら、主に信頼することを少しずつ学ばされて、人生はかえって豊かで意味深いものとなってゆくのです。近道ばかりをつっぱしっていたのでは見ることのできない素晴らしい祝福ひとつひとつを味わいながら、神さまとの旅路をゆっくりと楽しみましょう。今日のデボーションは詩篇41篇と出エジプト記13章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.10. #1435

 『四百三十年が終わったとき、ちょうどその日に』(出エジプト記12章41節)
 激しい苦悩と労働を負わされたイスラエルの民の奴隷としての日々が、ヨセフのいた時代にイスラエルの民がエジプトへと移住して以来、430年たったちょうどその日に、終止符を打ちました。主は、その日、その時をあらかじめ知り、それが一番良い時と定めて計画しておられたのです。430年というのは長い年月ですが、時間を超越する主の目の前には、すべての時が見通されています。私たちの生涯にも、苦難や労苦は訪れますが、主が一番よい「時」を定めて、素晴らしい計画を備えて下さっているのです。私たちひとりひとりが、母の胎のうちに、かたち造られる前から、まだ生涯の『一日もないうちに』、主はすべての奇しい(くすしい)みわざをもって私たちの生涯を祝福すると定められていたのです(詩篇139篇)。困難や試練がおとずれても、心配はいりません。すべてが主の御手のなかにあり、私たちは主に愛されているのです。主のみわざを仰ぎ見る『その日』を楽しみにしつつ、たえず主を喜び、賛美いたしましょう。『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている』(エレミヤ29:11)今日のデボーションは詩篇40篇と出エジプト記12章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.9. #1434

 『彼があなたがたを行かせるときは、ほんとうにひとり残らずあなたがたをここから追い出してしまおう』(出エジプト記11章1節)
 数々の災いに加え、最後の災いがエジプトに下されるにあたって、パロはついにイスラエルの民を行かせることになりますが、壮年の男だけならなよい、あるいは家畜を連れていってはならない、などといつもさまざまな条件をつけていたパロが、ひとり残らずイスラエルの民がエジプトを去ることを許すに至ります。『私たちは若いものや年寄りも連れて行きます。息子や娘も、羊の群れも牛の群れも連れて行きます。』というモーセのことばどおり、ただのひとりも残される者はなく、すべての人々と家畜が、エジプトを出てゆくのです。こんなに大勢いるのだから、ひとりやふたりいなくてもしょうがないという考えは神さまにはありません。主にとってはひとりひとりが高価で尊い存在、100匹のうち1匹でもいなくなったら、すぐさま探しに行く人が、見つかった一匹のゆえに大喜びするたとえを、イエスさまが話されたとおり、ひとりの存在が神さまにとっては重要なのです。今日のデボーションは詩篇39篇と出エジプト記11章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.8. #1433

 『主がパロの心をかたくなにされた』(出エジプト記10章20節)
 わかりにくい表現だと思われるかもしれませんが、主がパロの心をかたくなにされた、ということばは、パロが心をかたくなにすることを、主はゆるされた、という意味合いを持っています。『いつまでわたしの前に身を低くすることを拒むのか』という主のことばどおり、パロは主の前にへりくだろうとは少しも思いません。わざわいさえなくなれば、それでいいと、自分の心を見つめることはせず、主もパロのそのような姿勢を放っておかれることにしたのでした。一方で、『神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。』(詩篇51篇)とダビデ王が歌ったように、主が砕かれたたましいを放っておかれることなど決してないのです。私たちが自身の弱さを認め、自分の心が主によって作り変えられることを望んでいるならば、主は喜んで私たちの心をいのちの泉のわくところとして祝福してくださるのです。『エジプトが滅びるのが、まだおわかりにならないのですか』という、緊迫したパロの家臣たちのことばを聞いていると、ヨセフの時代のエジプトにもたらされた繁栄と祝福がうそのようです。砕かれた心を大切に致しましょう。『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。』(箴言4:23)今日のデボーションは詩篇38篇と出エジプト記10章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.7. #1432

 『わたしのような者は地のどこにもいないことを、あなたに知らせる』(出エジプト9章14節)
 主によって次々と下される災害に、パロは何度もイスラエルの民を行かせると約束するものの、いざその災害が去ってゆくととたんに心をかたくなにして、イスラエルの民を去らせようとはしません。『わたしのような者は地のどこにもいないことを、あなたに知らせる』という主のことばどおり、主ご自身がエジプトに災害を下されていることと、だれにもそれをとどめることはできないことがはっきりとしていました。パロ自身、主の存在をもはや否定することができず、かたくなな心を貫けば、さらなる災害が下されることを察知しながら、どうしても自分の心まで主に明け渡すことができないのです。私たちの心にも、まるで小さなパロのように、かたくなな部分があちらこちらに点在しています。主を、主と仰ぎながらも、どうしても主に道をゆずろうとしない、かたくなな心を発見したら、ひざまずいて祈りましょう。砕かれたペテロを、新しい神の力で満たし、飛翔させてくださったのは、イエスさまの祈りと聖霊でした。パロは、主を認めながらも、主とかかわろうとは一切しませんでした。私たちには、祈りがあります。主の御座に近づきましょう。今日のデボーションは詩篇37篇と出エジプト記9章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.6. #1431

 『それは主であるわたしが、その地の真中にいることを、あなたが知るためである。』(出エジプト記8章22節)
 エジプト全土に下される悲惨な災害にもかかわらず、パロがなおも心をかたくなにするがゆえに、主はエジプト全土を覆うぶよの大群に続いて、あぶの群れを送られます。杖をへびに変えたり、水を血にかえることのできたエジプトの呪法師たちも、地のちりをぶよに変えることはできないことを知って、『これは神の指です』とモーセとアロンの背後に神がおられることを認めました。続くあぶの群れに関して、主はイスラエルの民がいるゴシェンの地だけを特別に扱い、一切あぶの群れがとどまらないようにされます。『それは主であるわたしが、その地の真中にいることを、あなたが知るためである』、と主はイスラエルの民にも、主の存在をはっきりと示しはじめておられます。主は私たちの生涯のど真ん中にも主がおられることを、少しずつはっきりと現してくださいます。最初は、エジプトの呪法師たちのように、大きな違いが見られなかったとしても、もうこれは人間わざではない、これは主に他ならない、主以外の何者もこれを行うことはできないと神のみわざを仰ぐようになります。主は私たちの只中におられます。私たちは主との歩みの中で、その現実をさらに深く知るようになるのです。『あなたの神、主は、あなたのただ中におられる』(ゼパニヤ3章)今日のデボーションは詩篇36篇と出エジプト記8章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.5. #1430

 『エジプトはわたしが主であることを知るようになる。』(出エジプト記7章5節)
 モーセを通して語られる主のことばに耳を傾けず、ますます心をかたくなにするパロの姿勢をも、主は益とされます。『わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行なおう』という主の宣言どおり、主は次々とエジプト全土を覆う、大規模な奇跡をもって民を苦しめ、パロにゆさぶりをかけるのです。そしてついに出エジプトの出来事が現実となり、『イスラエル人を彼らの真中から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るようになる』と、イスラエルの民を祝福するだけでなく、そのすべての奇跡をまのあたりにするエジプトの民までもが主の存在を知るように導かれるのです。試練や困難が訪れても、主の御手(みて)はそのすべてを常に祝福にかえて下さるのです。モーセとイスラエルの民にとって、パロは目前にたちはだかる巨大な壁のような存在でしたが、主はパロのかたくなな心を通じて、ご自身の存在をエジプト全土に明からにして下さいました。問題がどんなに大きくても、主の祝福の素晴らしさがそれらすべてをはるかに上回っていることが、はっきりとしてくるのです。『神がすべてのことを働かせて益としてくださる。』(ローマ8:28)今日のデボーションは詩篇35篇と出エジプト記7章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.4. #1429

 『わたしは主である。』(出エジプト記6章6節)
 天地万物を創造し、そのすべてを支配しておられるお方が、『わたしは主である』と語られます。『わたしは主である』ということばを聞き、主ご自身に出会う者はだれでも、恐れおののき、ひれ伏すばかりです。この全能なるお方の御手がわたしたちを抱き寄せ、包み込んでくださるのです。『伸ばした腕と大いなるさばきによってあなたがたを贖う』ということばどおり、私たちを贖い、ご自身のものとされるのです。このお方が、『わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる』と約束してくださるので、私たちは本当に主にむかって、『わたしの主よ』と呼びかけ、いつでも祈ることができるのです。イスラエルの民はあまりの『落胆と激しい労役のため』、この素晴らしい主の語りかけを聞こうとはしませんでした。ところが主の恵みはますます彼らの上に注がれて、彼らは少しずつ主のもとに引き寄せられ、ついに『主を知る』者となるのです。主を呼び求めましょう。主は今日も私たちのすぐそばにおられて、『わが主よ』と呼ぶ私たちの声と祈りにすぐさま喜んで応えてくださるのです。今日のデボーションは詩篇34篇と出エジプト記6章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.3. #1428

 『それなのにあなたは、あなたの民を少しも救い出そうとはなさいません。』(出エジプト記5章23節)
 アロンの助けを得て、モーセはついにパロのもとへと向かいました。ところがパロは、モーセの申し出をはねつけ、イスラエルの民がなまけ者になろうとしている、と責め立て、わらなしでも今までと同じ量のれんがを納めるようにと、度を越した苦役を民に課すようになってしまいました。主がモーセに与えられたことばとしるしを見た、イスラエルの民までも、主の救いなど起こらないではないか、とモーセたちを激しく責めるようになってしまうのです。主に使命を与えられたからといって、物事が最初からすべてうまくゆくとは限りません。人々からの反発を受けたり、主の約束のことばなど全く実現してないように見える状況の中を通されることもあります。そんな苦しい状況に立たされても、主に信頼致しましょう。『天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い』ということばどおり、私たちには想像もつかない領域で、主は働いておられます(イザヤ55章)。自分の視点からしか見えない事柄の背後に、私たちの思いのすべてを越えて着々と祝福の計画を実行しておられる主の御手があるのです。今日のデボーションは詩篇33篇と出エジプト記5章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.2. #1427

 『ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください』(出エジプト記4章13節)
 突然、主から使命を受けたモーセは、とまどいながら、いろいろな質問を主に投げかけます。民に主をどのような名前で紹介したら良いか、民にどのようにして自分が使命を与えられたかを説明すれば良いか、民が信じない場合はどう対処したら良いのかとひとつひとつ主に尋ねるモーセに、主は十分な用意を整えて説明して下さいます。一通り、すべての説明が終わったところで、『さあ、行け』と主が語られますが、モーセはついに、『どうかほかの人を遣わしてください』と辞退を願うのです。一方、エジプトからイスラエルの民を去らせまいと、パロが心をかたくなにすることも主は、前もってモーセに告げています。私たち人間の弱さは、できれば他の人を遣わしてほしいというモーセのような逃げの姿勢として現われたり、神が何を望んでいようと自分のやり方を通したいというパロのようにかたくなな姿勢として現われてきます。人間であるかぎり、この弱さをだれもが持ち合わせていますが、聖書はこのような弱さを「肉」と呼んでいます。『御霊(みたま)によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。』私たちだれもがもっている弱さを乗り越えさせるのは、聖霊の力です。自分の弱さに目を向けるのではなく、主を見上げるときに不思議な力が湧き上がってきます。今日のデボーションは詩篇32篇と出エジプト記4章です。祝福をお祈り致しております!(2011.3.1. #1426

 『わたしはあなたがたをエジプトでの悩みから乳と蜜の流れる地へ上らせる』(出エジプト記3章17節)
 人生には繰り返し、神さまとの新たな出会いと、転機が訪れます。モーセの生涯も、最初の40年がエジプトにおいて、そして次の40年がミデアンの地において、そしてその次の40年はイスラエルの民を引き連れ、荒野において繰り広げられました。今日の箇所においては、ホレブの山において、燃えているのに焼け尽きない柴に引き寄せられたモーセに、主が現われ、イスラエルの民をエジプト王の圧制の中から導き出すようにと使命を与えられます。主はイスラエルの民の苦しみ、嘆きを聞き届けたので、民をエジプトから乳と蜜の流れる地へと導こうと仰せられるのです。私たちの人生もまた、エジプトから乳と蜜の流れる地へと導かれるようなものです。その時、その時の課題をかかえ、悩み苦しみながらも、主は私たちを乳と蜜の流れる地へと導いて下さるのです。奴隷として過酷な生活を強いられていたイスラエルの民ですが、そのすべての悩みを主は『確かに見、彼らの叫びを聞き、彼らの痛みを知って』おられたのです。私たちも必ず主の不思議な御手の働きを見ることになります。たとえ大きな試練を通らされても、その行き着く先は、乳と蜜の流れる地です。主を待ち望みましょう!今日のデボーションは詩篇31篇と出エジプト記3章です。祝福をお祈り致しております!(2011.2.28. #1425

 『女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三か月の間その子を隠しておいた。』(出エジプト記2章2節)
 エジプトの地において増え広がり、勢力をますイスラエル民を押さえつけるため、新しいエジプト王は、すべて生まれてくる男の子を殺さなければならないという、あまりにも残酷な命令を下します。厳しい状況の中、あるレビ人の娘は、生まれてきた男の子があまりにもかわいいので、三ヶ月隠しておきました。三ヶ月後ついに隠しきれなくなり、瀝青(れきせい)と樹脂を塗ったかごのなかに男の子を入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に、そっと置くことにしました。たとえ三ヶ月でもと赤ちゃんをかくまった母親の愛が、モーセの生涯を切り開きました。そして岸の茂みに隠されたかごの第一発見者となるのが、パロの娘となり、事を察したパロの娘が今度はモーセをかくまって、モーセの生涯はまたもや不思議な神の御手によって守られるのです。モーセの姉はかごを見張っていて、パロの娘が拾い上げるとすぐに乳母を呼んでまいりましょうか、と声をかけ、モーセの母親は賃金をもらいながらモーセを育てることになります。その間に、モーセは母親を通して主を知るようになり、やがて大きくなると、王女の息子として迎え入れられるのです。私たちひとりひとりの人生の背後に、主が働きかけておられます。絶妙なタイミングで、主はすべてを益とかえてくださっているのです。小さな出来事ひとつひとつの中に、主の愛を見ることができますように。今日のデボーションは詩篇30篇と出エジプト記2章です。祝福をお祈り致しております!(2011.2.27. #1424

 『神は彼女たちの家を栄えさせた。』(出エジプト記1章21節)
 ヨセフを知らない新しい王がエジプトに君臨すると、主の祝福を受けて、ますます強く増え広がるイスラエルの民に身の危険を感じて、厳しい政策が取られるようになりました。イスラエルの民は倉庫の町の建設に狩り出され、過酷な労働を強いられ、粘土やれんがの労働や、畑の労働など過度な労働がイスラエルの民の生活を圧迫します。ところが『苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がった』ので、エジプトの王はとうとう産まれてくる男の子を殺すようにという悲惨な命令を下すのです。このような圧政下にも、主の祝福が閉ざされることはありません。エジプト王ではなく、神を恐れるヘブル人の助産婦たちは、男の子を生かしておくように手立てを計るのです。『神はこの助産婦たちによくしてくださった。それで、イスラエルの民はふえ、非常に強くなった』と、助産婦たちを通して主の祝福が民に広がってゆきます。さらに『助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた』と、助産婦たちの一家が目に見えて祝されるようになりました。きっと一家をあげて、主を愛する家族が築かれていったのでしょう。ひとりの人が神を愛して立ち上がるとき、祝福はおのずとその人の周りへ流れ出してゆくのです。今日のデボーションは詩篇29篇と出エジプト記1章です。祝福をお祈り致しております!(2011.2.26. #1423